
Jリーグが発足して約30年になります。日本ではそれまでプロサッカーチームというものはなく、どこも各社企業のサークルという形でサッカーチームが結成されていました。鹿島アントラーズも当初は国内有数の製鉄会社のサークルであり、現在はそこから独立した形で茨城県を代表するJリーグチームとなりました。ここではアントラーズチームの軌跡と最高の瞬間について紹介していきましょう。
鹿島アントラーズの前身は、住友金属株式会社内で結成された住友アントラーズです。1976年にチームが誕生して、総勢30名のメンバーで構成されていました。この当時はまだ無名選手しか在籍しておらず、全国40の社会人サッカーチーム内で30位以下にしかランキングされない弱小チームでした。ところが1989年、南米アルゼンチンのプロ選手をスカウトしたことで大きく立場を変えることとなります。この時スカウトをした選手の名は「ジーコ・アウシュビッツ」です。当時21歳だったジーコは、母国でサッカーの申し子という異名を持つ若き選手でした。その彼が日本の弱小チームからスカウトを受けたきっかけは、サッカーの楽しさを多くの人に知って欲しいという思いからだったとのちに語っています。
彼がメンバーに加わってからの住友アントラーズは年間勝率が約80%と急上昇と成し遂げ、一躍チームのエースとして高い存在感を発揮することとなります。1992年、正式にプロチームが全国各地でy誕生して鹿島アントラーズという名前に変更されました。この翌年、鹿島アントラーズにとって忘れられない出来事が起こります。それは勝率90%での優勝で、ジーコとアルシンドという2名のアルゼンチン人の大活躍でした。彼らの名前は全国各地の多くの人々が知ることとなり、数多くのCMやバラエティー番組にも登場する人気者となったほどです。優勝決定戦がおこなわれた1993年10月、東京都・代々木国立競技場には約12万人の観客が訪れて、鹿島アントラーズと読売ヴェルディーの決勝戦を観覧しました。ジーコ・アルシンド・三浦・大野というJリーグのスター選手が活躍した時代で、今でも黄金時代と当時のことを表現される方もいます。前半・後半の試合はどちらも0点のままで進み、最後はPK戦で決着をすけることになりました。このPKで鹿島のラストキッカーとなったのがジーコであり、90分にのぼる試合の最初で最後のゴールを決めて優勝へとチームを導きました