
歴史 2
2000年の頃
市原から野々村芳和、G大阪から播戸竜二、京都から大森健作、FC東京からアウミール、V川崎から高木琢也、ブラジルのサンパウロFCからエメルソンらを補給して、チームの底力を上げた。ここからはいかにJ2を戦うための戦術を確立して、かつそれを実行することがでいる選手を各ポジションに揃えて、14連勝を含む17試合無敗を含む、31勝5分4敗でJ2優勝を果たすのであった。この好成績に押されて観客動員数も増えて、この年初めて単年度黒字を達成することになる。また、この年に地元北海道出身で期待の新人といわれていた山瀬功治も登場することになる。ここまでは良かったが、少ない予算でJ1昇格を狙うためにクラブが取った策は、主力選手を期限付き移籍で集め、メンバーを固定して戦うというものだった。この結果として、エメルソンを含む8人がレンタル選手というチーム編成となっていた。
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2001年の頃
この年はコンサドーレ札幌が創立5周年を迎えた記念すべき年となった。
何とかJ1昇格を実現できたものの、レンタル選手依存体質からの脱却がこの当時の優先事項として残り、特に31得点でJ2得点王を獲得したエメルソンの完全移籍が最重要課題となっていた。このための資金を捻出する方法としてサポーターから増資を募り、最終的には2億5千万円という目標を上回る3億円近くの資金を集めることに成功する。この増資の最大の目的だったエメルソンは退団は何とか退団するも、『エメルソン基金』と呼ばれるようになったその資金を下に他の主力選手を完全移籍させて、またエメルソンに変わるストライカーとして大分のFWウィルをレンタルで獲得した。開幕戦ではG大阪にアウェイで競り勝ち、続く柏戦でも勝利を飾る。勢いに乗った札幌は一次は2にまで上るなどの予想以上といえる戦いぶりを見せるようになった。また、ウィルが24得点で得点王を獲得する活躍もあって、10勝5分15敗の11位でJ1残留を果たした。また、同年完成した札幌ドームの集客効果も加わり、平均観客動員数は2万人を突破にし、2年連続で単年度黒字を達成することを成功する。さらには、山瀬功治がこの年J1最優秀新人選手賞を受賞する。この年も新人の今野泰幸が高卒1年目でレギュラーを獲得して、時チームでの戦力要請にも道筋がようやく目処が付き始めた。この年には主力で活躍していた選手たちが続々移籍して、そして監督を務めていた岡田監督も退任することになる。
2002年の頃
新監督として、S級ライセンスを取得したばかりで監督経験のない柱谷哲二を招聘し、ウィルに変わるストライカーとして、ロシアサッカー・プレミアリーグの強豪FCスパルタク・モスクワからブラジル人FWロブソンを、そして日本人選手では東京Vから小倉隆史、G大阪から小島宏美らの獲得に成功する。しかしロシアリーグ得点王、UFEAチャンピオンズリーグ出場という肩書きを引っさげて鳴り物入りで加入したロブソンが全く成果を挙げることが出来ず、チームは開幕から黒星を飾ることになってしまう。結局ロブソン5月末に退団することになり、その時監督が発言した一人の選手に対しての責任転嫁をしているというような発言に批判が集まってしまい、6月に解任されてしまう。その後の後任監督として、レアル・オビエドのチームコーディネータを務めていたイバンチェビッチ・ラドミロを招聘して、また同じくユーゴスラビア人FWバーヤック、ブラジル人MFジャディウソンの二人の外国人選手を始め、日本人選手も次々と獲得して建て直しを図ったが、試合内容は改善したものの勝負弱さは払拭することが出来ず、成績は一向に上向くことなく、イバンチェビッチは9月に辞任してしまう。後任には張外龍が内部昇格したが、一度狂いだした歯車を止めることはできず、10月27日のアウェイ鹿島戦に敗れてしまい、2度目のJ2降格が決定してしまうのだった。この度重なる解任騒動や選手獲得などにより、9千万円近くの赤字となってしまうのだった。
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2003年の頃
またもJ1復帰を1年で掲げ、新監督に鹿島や名古屋で監督を勤めたジョアン・カルロスを招聘し、横浜MFを退団したウィルが復帰を果たして、MFホベルッチ、MFベットという二人の元ブラジル代表選手を獲得した。一方ジョアン・カルロスと角質のあった小倉が退団した他、山瀬功治が浦和へ移籍したが、U-20日本代表主将今野泰幸など、J2トップクラスの戦力をそろえることに成功した。
ところが、開幕戦で横浜FCに1-3で破れてしまってスタートダッシュに失敗、その後も別途がホームシックにかかり退団同然で帰国してしまうなど、外国人選手が次々とトラブルを起こしてしまい、シーズン中に全員が退団するという異常事態に見舞われてしまうのだった。その後MFビタウ、元大分のFWアンドラジーにゃ、元名古屋のMFウリダを獲得したが、8月2日に行なわれた試合で大敗を喫したということでジョアン・カルロスが監督を辞任してしまう。後任には張外龍となるが、この時点でとき既に遅く、昇格の争いにも絡めないままこの年のシーズンを最悪の結果に終わらせてしまうのだった。
2004年の頃
2003年に社長に就任した佐々木利幸の下、過剰債務からの脱却を図るべく、その方針転換の指標をなる『5段階計画』を打ち出す。それは、人件費を肇とした経費の圧縮により経営の黒字化を図り、債務超過を解消すると同時に、若手主体のチームとユースチームの強化を軸とする長期育成計画を立て、レンタル移籍や外国籍選手に頼らずにJ1で安定して戦えるチーム作りを目指すというものだった。そのため、磐田でユースやサテライトチームの監督を長く務め、同トップチームの監督を務めていた柳下正明を監督に招聘する。また、監督就任交渉時においては『パスを回して自分たちから積極的に攻撃を仕掛けられるチームを作りたい』と述べた強化部長の城福敬に対して、『そのスタイルならば、受けます』と応じていた。
2004年は、中心選手だった今野泰幸や高年俸のベテラン・外国籍選手を放出し、一方でユースから鈴木智樹と蛯沢匠吾、高卒ルーキーの上田常幸、上里一将、桑原剛、斉川雄介、大卒ルーキーの河端和哉、鎌田安啓といった8人の新人選手、テスト制から入団した静岡FCの清野智秋を獲得することに成功する。
開幕から第4節まで負け無しで順調なスタートを切ったが、プロ3年目までの選手が大半を占めるチームならではの戦力・経験不足が露呈してしまい、三原廣樹の大怪我による戦線離脱や新居辰基と中尾康二の不祥事を引き起こしたために解雇する事態になるなどが起きるも、補強として横浜MFから金子勇樹、神戸から西嶋弘之を獲得して、特別指定選手としてチームに加わっていた権東勇介と正式契約するなどして、局面打開を図る。しかし勝利を度外視して若手育成に当てたメンバー構成のチームでは勝ちを得ることなど出来るはずもなく、この年は最下位になってしまうという結果に終わってしまうのだった、しかしこの年の天皇杯ではベスト8まで残り、更に経営面の方では経費の削減が実を結んだのか、今野がFC東京へ移籍した際の移籍金も含めて、クラブ史上最高の約3億5千万円の黒字を達成したことにより、債務超過は1億円以下にまで下がるという結果になった。
2005年の頃
柳下体制2年目、生GK藤ヶ丘陽介がG大阪に移籍したが、補強として広島から林卓人と中山元気、鹿島からは池内友彦、磐田から高原寿康と加賀健一を獲得して、新人は徐暁飛、ユースの石井謙伍と野田達郎を入団を果たした。
前年と同じく5位以内を目標に掲げてシーズンに臨んだが、堀井岳也、上里一将、西澤淳二らが負傷したことにより長期的戦線離脱をすることになり、チーム力が低下してしまい、シーズン中盤に浦和から西谷正也、水戸からデルリスを獲得して補強を行なう。西谷は攻撃力の向上に大きく寄与した一方で、当初目標としていた5位以内には入らなかったものの、第4クール後半までJ1昇格戦線に食い込む活躍を見せ、柳下が2006年も指揮を執ることとなる。得に、DFの要として期待された池内は、チームトップの11得点と2桁得点を挙げ、守備だけでなく攻撃でも貢献した。
シーズン中にクラブ取締役が不祥事を起こしてしまい、経営面で一時的に打撃があったものの、チームの頑張りによって何とか立て直すことだ出来るといった事態もあった。
2006年の頃
柳下体制3年目の年、創立から10周年から補強は、川崎からフッキ、千葉から芳賀博信、山形から大塚真司と川崎健太郎、水戸から関隆倫、アルビレックス新潟シンガポールから野本安啓、名古屋からセバスティアンを獲得し、ユースから藤田征也と西大伍が昇格する。
J1昇格を目標に掲げてシーズンに望むが、前年と同じく序盤でフッキの出場停止などの主力選手の怪我も影響してか、10試合連続未勝利という不名誉な記録を達成してしまうのだった。しかし、第41節湘南戦、第42節徳島戦ではクラブ史上初の2試合連続6得点をあげるなど、歯車が噛み合った試合では爆発的な攻撃力を発揮した。『走って繋いで撃ちまくれ それが札幌スタイル』という横断幕も登場して、3年間継続した攻撃的サッカーが根付いたシーズンとなった。また、天皇杯ではJ1勢の千葉、新潟、甲府を破り、クラブ史上初のベスト4に進出することになった。準決勝ではG大阪に1-2で敗れたものの、チームとしての成長は目を見張るものがあった一方、柳下が2006年シーズンで退任することになる。